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ピエール瀧になりたかったBOY

「奥田民生になりたいボーイ」ってあったけど、ピエール瀧は奥田民生より奥田民生だった気がする。

「奥田民生になりたい」なんて気軽に言えない。
好きなことをやっているイメージだけど、どう考えても凄まじい才能と努力の下地がガッツリある上でやっている。あんなに伸びる高音を持っていて、それに頼らない曲を作っている。

ただ、ピエール瀧ならどうだ。
楽器がひけないそうじゃないか。役者としての成功も、持って生まれた存在感を生かしているように見える。

周囲よりちょっとある才能で、うまいこと世間から認知されたい。
偉人扱いされたり大金持ちにならなくてもいいから、ありきたりじゃない人生。あわよくば好きなことに関われる人生を送りたい。

平凡な人生で終わりたくないけど、ぼくには平凡な人生から抜け出す才能がない。専門学校でイチから勉強しなおしたり、人生をかけた作品を作り上げてうちのめされる覚悟もない。
ないくせに、好きなことに関わって、ありきたりじゃない人生に踏み込んでみたい。

だって、世の中には、楽器ができない人がなぜかステージに上がって観衆を沸かせる、そんな生き方になっちゃう場合もあると聞いたから。
血のにじむ努力をしている様子はないのに、生まれ持った存在感で役者になる、そういう人生もあると聞いたから。
自分ももしかしたら、いつの間にか人生の分岐点で正解をひいて、すーッと「そっちの人生」にたどり着く可能性も。ゼロじゃない。かも。ピエール瀧という実例があるから。

他人を出し抜けるほどの才能がなくても、好きな世界にさそわれて、他に変えのきかない必要な存在になりたい。
そんな人生もあり得ると信じていないと苦しい。

自然体に見えた人が、薬物に頼らないと精神がもたないほどの苦悩があったとか、そんなん聞きたくない。
実は、楽器をやらないで着ぐるみでステージに出ることに悩んでいたとかは言わないでほしい。
歌番組に出たり、いい加減なタイトルのエッセイ出せるキャラを演じていたとかは言わないでほしい。

極夜行前

暗い場所を体験するには、本がいちばんだ。

冒険家の角幡唯介の「極夜行前」を読んでいます。
太陽の昇らない真っ暗な北極を旅する話で、準備段階の「極夜行前」、本番の「極夜行」
2冊で前後巻のようになっています。

今の「冒険」とされているものは、行く前から地形がわかっているし、最悪の場合は救助を呼べる。
死の恐怖と心からの喜びにふれられない。
だから、GPSを禁止して、星で現在地を割り出す技術を学んで、視界に頼れない極夜を旅する。

極夜をあえて選ぶことで、100年前の冒険と同じく、誰もしたことがない旅になる。
一瞬の気のゆるみが死につながるが、生還できたら今までの日常が輝いて見える。
人生観を変える冒険にするために、あえて文明の利器を手放していく。

この旅を本で読むのが至高。
ずっと真っ暗の世界は、不安がむくむくわいてくる。テントがこすれる音がクマや狼の気配に感じるし、いつの間にか薄氷に踏みこんでいることに気付いて心臓が止まりそうになったり。

作者は暗闇の中にいる。読者も文章で彼を追っている。
ふたりとも、映像がないのだ。

感じられることだけ。限られた情報だけで旅をする。
ふたりでかろうじて繋がっている。暗闇の旅は本で味わうのがいちばんいい。



「レッドデッドリデンプション2」で思い出す「シェンムー感」



PS4「レッド・デッド・リデンプション2」のストーリーをクリアしました。悪党とワニとガラガラヘビがうごめく西部が愛しい。毎日ヘッドホンで浸れる現実からの逃避先だった。ギャングファミリーの一員になって、強盗から家畜の世話までしながらアメリカを放浪する。
最初は強い男たちが引っ張ってるのに、追い詰められると女性や生活力のある者の存在感が増し、古い男たちは虚勢を張りながら滅びの道を歩む。

ライフルで仕留めたウサギはしばらく放置すれば腐敗して、ハイエナやカラスが群がる。
気配がばれないように風下から弓矢をかまえる。むしった羽はキャンプで矢に加工して、肉は香草といっしょに焼いて喰おう。体重が増えると馬のストレスになる。ニンジンをやったり、なでてやると馬も嬉しそうだ。

面倒くさそう?
だけど、尋常じゃない「リアルさ」が詰まっていて、本当に旨そうな肉、草木や天候の気配、動物たちの情報が集まっていくのがたまらない。

僕は面倒くさがりだ。せっかく買った本を数行で閉じることもある。
だけど、このゲームで野生のニンジンを収穫するのは苦痛じゃない。草をつかんだ音、ぼこっと土から出てくる感触。手ごたえがある。「作業」のひとつひとつにちょっと気持ちいい瞬間がある。



「オープンワールド」「QTE(表示されたボタンをすぐ押すやつ)」を定着させたのはシェンムーというゲームだ。今でこそ名作扱い。当時はそんな評価じゃなかった。困惑というか。
映画でいえば松本人志監督「大日本人」の反応に似てた。

町をまるごと再現して、行く必要のない場所まで作ってる。通行人みんなに生活スタイルがある。それはなんだ。そこを作り込んで面白いのか。胸が躍らねえよ。ゲームって、刺激を与えてなんぼじゃないのかよ。
そんな感想を持ったのは僕だけじゃないようで、シェンムーは中古屋にワンコインで並んだんですが、ゲーム雑誌の投稿欄に「味わいかた」を見つけた人たちが現れる。

ひたすらミニゲームだけ極めたり。
攻略に関係ないガチャガチャのおもちゃを集めたり。
リアルだからこそ浮いてる「なぜかジュースは一気飲み」を面白がったり。

グラフィックとストーリーと音楽だけじゃない。
どんな遊び方で、どこに注目しようと自由だ。そう思えたプレイヤーを増やしたのが、シェンムーの功績かもしれない。              あー、当時のゲームのことを思い出してきた!
「コレクション要素」が不思議だった!攻略に関係ないものが存在することに慣れてなかった。ゲーム内でガチャガチャのオモチャ集めってなんだよ、って頭抱えた記憶が・・・。

何の話だっけ。そうそう。
RDR2を遊んで、これシェンムー感がある!って思ったんだった。

まず、敵を倒して気持ちいいから楽しいってゲームじゃない!
画面の向こうにもう一つ世界があって、人々の営みがあること自体の面白さ。
地面によって足音が変わり、草木がこすれる音がして、遠くで獣や人々の声が聞こえて、全てはリッチに実在感があふれている。

なのに、銃で撃たれてもビスケットやクラッカー食べて回復する!
「リアルではこうだから」と作り込んでたのに、
急に「ここはゲームだから」と割り切った!

現実はひと晩寝ただけでは、引っ越しの筋肉痛もとれない(私か)けど、ドラクエの世界ではひん死の人も体力全開になる。
そんなこと疑問に思わなかったのに、他の部分をリアルに作り込むと「ゲームのお約束」でスルーしてきた部分が浮き上がる。

シェンムーで、ジュースを自販機で買った直後に一気飲みする場面で思った。「あ、そこはそういうシステムなんだ」。

RDR2の褒め言葉に「リアル」を連呼しそうになるけど、リアルに作り込むほどデフォルメされた部分も目立つ。
「リアル!リアルだ! あれっ・・・ここはゲームなんだ」
この揺れ動かされる感じが「シェンムー的」。他の「リアル」が売りの映画や小説とも違う、奇妙なおもしろさがある。
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